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Talk-80 2024年の制作発表活動

(1)

むくげのアルタミラ MAR2024 73×103×3cm
 
 
(2)

「エヒメノタマビてん3」(3月26日〜31日 愛媛県美術館)
 
 
(3)八束ヒナ子展を企画


 
関係者各位 2024年6月12日  龍照
 
龍照こと坂本龍彦です。昨年発表したPRESENTATIONはいかがでしたか?私はその後、「エヒメノタマビてん3(愛媛県美術館)」より、恐る恐る“龍照”を名乗り始めております。
 
さて、今回は私の叔母である八束ヒナ子(89)の個展案内になります。
 
叔母は昭和10年(1935)に愛媛県上浮穴郡仕七川村は岡崎家、6男3女の末娘として生まれました。私の母、坂本愛志(1928−2014理圓院隨心恵愛大姉)のすぐ下の妹になります。※仕七川村はその後美川村となり、現在では久万高原町の一区域となっています。
 
今年2月1日、お見舞いに伺った病室で、遺言ともとれる叔母の語りを、私は一人神妙に聞き入っておりました。が、その最後に<これまでの作品を発表しておきたいがもうその余力が無い>との切実な思いが伝わって来た時、<これは何としても私が実現せねばならない“ヒナおばちゃん”の回顧展なのだ>と悟ります。その刹那に一枚の古ぼけた写真が脳裏をかすめておりました。※後述 
 
その後3月31日には、一時的に自宅療養が許された叔母を砥部に訪ね、そこで出展すべき作品群の大半を確認しております。DMに用いる作品はすぐに決まりました。※DM表紙: 油彩10Fキャンバス
 
この静物画は、叔母が60歳頃に描いたものだそうですが、たいへん良くできていると思います。是非実物をご覧になって下さい。円熟期に差し掛かっても尚、初心の画学生が如くにモチーフと向き合って、ただひたすら描く事そのことに没頭しています。画面上に残されたタッチやマチエル、色や形を通して今まさに静物画を描いている“ヒナおばちゃん”の、新鮮な息遣いが直に伝わって来る秀作であります。
 
叔母は目の前にある“静物”を写そうとはしておりますが、カメラで撮ろうとは思わない。あくまでも自分の目で見、自分の手を使って描くという事が大切なのであって、それがまた楽しくもあり、こうした描画体験の時の流れにこそ、芸術的価値が湛えられて行くのだと思います。そして私がこれまで繰り返し説いて参りました「修練稽古の精神論たる<技術>」がここに介在するのです。※Talk-59 Talk-77  
 
ところでこの“静物”はあくまでも絵を描くための口実であり、画家の<技術>を引き出す触媒としてセッティングされたもので、他には特に何の意味もありません。しかしながら、嗚呼!この方便に縁して無意識裏に引き出されたる修練稽古の精神論、<技術>!その痕跡に、救いの芸術宿り給う。・・・中略・・・かくしてこの<誠の芸術>の本質は、客観的に如何に見せているか、と言う作品の側にではなく、主観的に如何に見入ることが出来るかと言う、むしろこちら側の、何と言いますか、<霊性>にこそあるのです。これが今日私たちに求められている芸術文化の在り様です。ここに道が開かれている。さて、それではこの“静物”というイメージのガイドラインに沿って叔母の<技術>の跡を辿り、まずは制作時の「新鮮な息遣い」を感じ取ってみて下さい。そしてその後、更に奥深く見入って参りましょう。・・・後略 

 
油絵の他にも染色や陶芸、俳画、のれんやタピストリー制作、と叔母の趣味は広がっておりましたが、ここでも私が見たものは、表面に現れているイメージではなくそれを伝い、それを越えて触れることができた “ヒナおばちゃん”の魂そのものでありました。
 
「ものごとの表面でなくそれを支えているものを表したい」「一気に描く」「加筆はしない」「完成と言うものはない」・・・この日叔母から授かりましたる金言の数々にございます。 
 

 
この写真は1953年8月某日に私の父、坂本勇二(1925−2012理正院隨法智勇居士)が撮影したものです。三崎で私が生まれて間もなく、知らせを受けた“ヒナおばちゃん”ははるばる仕七川から一人で駆けつけて来たのでした。当時は八幡浜から三崎までの陸路がない。船で渡ったそうです。そして私を抱き上げた。上浮穴高等学校3年次の夏休みでした。それから今日に至るまで、刹那の幻71年。此度の因縁一切全てはここに契られていた気がいたします。 
 
その翌年、叔母は愛大教育学部に入学し音楽を専攻します。卒業後は中学校音楽科教諭として教育活動に従事しましたが、もともと美術にも興味があった。第二専攻は美術です。20才頃、自分で道具を揃えて油絵を描き始めます。記念すべき処女作は藤谷先生の下で描いた人物画であったと言います。※目録の5
 
もう70年近くも前の話です。私の知る由もない個人名が特に語られたことに、少し違和感を覚えたのですが・・・それにしてもこの“藤谷”という人物、一体に如何なる人物であったと言うのか!?この度お導きの“キーパーソン”として私に語りかけてくること佳山のごとし!※Talk-77 今、私の中で日に日にその存在感を強めています。(5/31)
 
叔母の制作は密かなものでした。その都度地域の展示会に出品はしていた様ですが、家族に見せる事もなく続いてきた制作、そして大切に残してきた作品。それが今、私たちに一体何を語り掛けて来ると言うのでしょう。5月も半ば、今日はあの里山房、六角堂の間取り図を手渡してきました。今頃、叔母は病室で懸命に展示プランを練っていることでしょう。個展会場では70年にわたる叔母のストーリーが綴られているはずです。皆様におかれましては暑い最中、お忙しい中ではありましょうが、お時間許しましたら是非ともご高覧いただきたく、ここにご案内申し上げる次第でございます。 
  
■私は里山房入り口の喫茶スペースにて「八束ヒナ子展」に寄り添う展示をしております。
 
ここから先は私事の余談の様ですが、実はこれがこの物語の真相です。面白いのは最近、ついふらふらと迷い込んだ金葉会という油絵の同好会でした。この私が?また何故に?しかし2024年4月24日まさしくこの日、ここで知らされる事になったのです。私と叔母とこの金葉会が、あの「藤谷先生」を通じて深く結び付いていた、と言う事を!・・・私はこの<誠の真実>を紐解いて行かねばならない。
 

その一週間後 F6 スケッチブック・鉛筆
 
ここは金葉会古びたアトリエの一角、雑然としたキッチンが面白かった。早速スケッチを始めておりましたら、メンバーの西之谷さんがそそくさとやって来て、いきなり洗い物をし始めたではありませんか!「おっとそこは今私が・・・」と言う間もなくそのまま画面に入りこんでおりました、の図。
                            
金葉会には今私が改めて取り組もうとしている<写生芸術>の形が、そっくりそのまま手つかずで残っていました。また、叔母の絵はその最初から、まごうことなき<写生芸術>であったのです。
 
金葉会の前身はかつてこの松山で隆盛を誇っていた金曜会であったと言います。そしてそれを立ち上げたのが誰あろう愛媛県洋画壇草創期の重鎮、藤谷庸夫氏だったのです。記録が週末ギャラリーにありました。里山房にもあった。里山房の里山人こと矢野徹志さんも又、この“藤谷先生”に学んでおられました。先生の忘れ物を取りに走り使いをした事もあったと言います。自宅がロープウエイ街の坂下にあったそうです。私が佳山に手相を見てもらった辺りかな?こんな所にも因縁めいたものを感じますが、それにしても“藤谷先生”、なぜにこの私が?・・・現在、週末ギャラリーの兵頭さんとあれこれ計画中。白内障の手術も終わって視力回復!これがまた大きい。(6/15)
 
ここで皆様におかれましては是非ともPRESENTATIONを今一度ご覧いただきたいのです。「あんなもん読んでもわからん!もっと分かりやすく!そしてもっと謙虚にものを言え!」・・・畏れながら、私は<誠の真実>に行じております。語っております。分かる分からん全く関係なし!正しくここに縁契りたるこそ救いなれ。縁すれば必ず響く!2pの“Career” が要旨です。一昨年丸一年かけて私自身昼夜を問わず読み返しておりました。これが私の画業50年、人類史2500年の要旨であることを幾重にも確認しております。もう間違いありません。これを私は全身全霊をもって呻吟しておるのであります。ここへ来てついに時節到来と判断し、“龍照”を名乗り始めました。これは1972年に「郷里松山のI・師こと石崎薫・師」より賜っておりました私の雅号であります。本来は縦に書くのだそうです。縦に書いてこそ意味を成す。師はおっしゃいました。「一千年の眠りから覚めた龍がここぞとばかり全力で天空を駆け巡り、遍く下界を照らし出す。 これが汝の天命なのである 」と。
 

案内パンフレットの裏面(8ページ目)
 
 
(4)「八束ヒナ子展」に寄せた私の新作3点

2024年2月12日15時58分

サザンカ

吉祥むくげ紋端切れ

35cm~40cm程度で不定形に切り取ったキャンバス作品を、同形に切り抜いたマット紙にはめ込んで額装してみました。・・・と言った処で、そんな事あんな事、いろいろお話してみませんか?次は週末ギャラリーで展示されます。↓
  
週末ギャラリー企画 第2回『アートのある日常』展 9/6(金)~10/27(日) 
■お茶会9/7(土)2:30~4:30 会費1000円。

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