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Talk-40 技法材料抽象構成

『技法材料抽象構成』は2001年の高校美術教育全国大会(東京大会)において埼玉県を代表して発表し、翌2002年には『教育美術』平成14年7月号no.721に掲載された教科研究報告です。些細な追加、修正等がありますが、本稿は『教育美術』に掲載されたものをベースにしています。
 
 
 
1■気が付いてみると、いつしかこの表現を自分で「技法材料抽象構成」と呼ぶようになっていました。
特に深い意味はないのですが、それが絵である以上、“日本画であろうが油絵であろうが抽象であろうが具象であろうが、もはや芸術としてはあり得ない”と思うようになっていた学生時代に、技法材料学のゼミをとっていたことや、その後アンフォルメルとそれ以降の抽象表現、書、水墨、線によるデッサン、そして「もの派」をはじめとする日本の「現代美術」に蘇生の活路を模索してきた、ということがあります。授業では、平明に「抽象」あるいは「非具象」として、実はこれが絵画表現の基礎なんだよ、と言って指導にあたっています。とは言っても別にたいしたことをやっているわけではありません。生徒には、目の前にある白いボードをよく見て、自由に絵具を付けたり取ったりしながら、自分が美しいと思える画面をつくりなさい、とだけ指示しておきます。
 
※本校へは平成13年度より勤務。平成4~12年度の作品は前任校(川越西高等学校)のものです。一部、前・前任校(大宮工業高等学校)のものがあります。
 

「技法材料抽象構成」 B1 mixed media H11年度 3年女子 美術部
 

「体内」 B1 テンペラ H11年度 2年男子 美術部
 
 
 
2■生乾きのタッチの上に新たなタッチを交差させる技法が、ごく自然にバランスよくあらわれています。色調との調和もここちよい。一般にボードの周辺が塗り残されるパターンが多いので、今回はあらかじめ周囲に枠取りの線を入れ、それを目安に絵具をおかせていきました。ゆくゆくはボードの側面から裏面に描画行為が回り込んでいく手法も教材化していくつもりです。キャンバスとイーゼルはここ20年間使っていませんが、キャンバスの材料性やイーゼルにたてかけて描く方法についても再検討していきたい。
 

「授業作品」 8F 油彩 H13年度 1年女子 美術進学
 
 
 
3■4時間授業のうち、1時間目の机間巡視で発見したリー・ウーファン※これ以上描いて壊さないよう、途中で参考作品として取り上げました。以来、私のコレクションの中でも最高傑作のひとつにランクされています。

「授業作品」 6F 油彩 H5年度 1年女子 美術進学
 
(編集部・注)1956年に来日、哲学を学んだ後美術に転じ、1960年代末の「もの派」の理論・実践のリーダーとなって、国際的な注目も浴びながら、日本の現代美術を牽引してきた作家。
 
 
 
4■油彩画の授業を屋外で行えばどのような作品ができるだろうか。おおかたの生徒は、地平線を設定した透視画法の、つきなみな風景画を描いてしまいます。ところがこの生徒は違った。草むらの表現にあらわれた「技法材料抽象」がおもしろい。全面にそのリズムを展開してもらいました。
 

「授業作品」 8F 油彩 H5年度 3年女子
 
 
 
5■ポスターに掛けた油絵の授業です。テーマやイメージが最初にあって技術を限定するのではなく、「技法材料抽象」を展開していきながら、それにふさわしいテーマや文言、字体等を、各自がそれぞれ自分で考えていきます。制作過程における作品それ自体との対話が大切になります。「あなたは考えてますか?」(作品タイトル)
 

「授業作品・オリジナル1点ポスター」 8F 油彩 H5年度 2年女子美術部 部長
 
 
 
6■参考図は、インクの拭き取り方の違いによって、そのつど作品の表情が変化していくという、<版>
と拭き取りの「技法材料抽象構成」。砂浜を吹き抜ける一陣の風、作者の気分の変化が、その風向きに影響していきます。コピーはそれなりに楽しいものですが、基本的にこれは芸術ではない。(後述) 同じものが複数できるからではなく、違うものが複数できるからこそ面白い。それにしても提出作品が「4回目(なぎ)」とは人を食ってます。
 

「授業作品・4回目(なぎ)」 B4ドライポイント H1年度 2年男子
 
 
 
7■これは材料に粘土、技法にヘラを用いた「技法材料抽象構成」。友人の頭部と言うイメージが、うまく「方便」(後述)としてはたらき、未熟ながら透明度の高い魅力的な作品となっています。
 

「授業作品」 高さ15cm 粘土 S61年度 1年男子
 
 
 
8■この線描による石膏デッサンは鉛筆による「技法材料抽象構成」。だれの言葉だったか良く思い出せませんが、「輪郭線に神ぞ宿れる」。なんとなく分かる気がします。ところで従来の石膏デッサン・・・。これはいけません。これはだめです。確かに今日でも、美術を学ぶ子どもたちに貴重な一益をもたらす、基本的かつ重要な題材の一つではあります。が、同時に百害を及ぼすものである、という矛盾を、もはや黙って見過ごすわけにはいかない。これは、神宿るべき輪郭線が、最終的には消滅してしまうという、堕地獄の描法。かくして近代美術は滅ぶべくして滅んでしまったのです。百害を見極めた上で、その一益に学ばねばなりません
 

「授業作品」 F6 鉛筆デッサン H14年度 2年男子 美術部美術進学 
 
 
 
9■この生徒の持っていた技法性が拡大かぼちゃ
にマッチすると思った。「かぼちゃになりきってみろ」と言って描かせました。後に出てくる「かりん」に絵づらがよく似ています。また、両者とも同じ画材を用いてはいますが、それぞれ異なった技法で描かれています。
 

「かぼちゃ」 B1 混合 H11年度 1年男子 美術部 全日本学生美術展 推奨
 
 
 
10■絵画表現はイメージや映像の表現ではありません。画面はイメージによって満たされた、あるいは映像に閉じこもった“picture”ではではなく、描画行為を受け止める「場」として開示されるべきです。ここで額縁の問題も浮上してきます。通常、額縁は必要としない。というよりも、付けてはならないことが多いのですが、多くの展覧会では額装が義務付けられている。そこで工夫したのが、仮額棒をあらかじめ作品の一部に取り込みながら制作して行く手法です。下図は紙面が許せばさらに多くが語れる秀作。
 

「震源」 B1 混合 H11年度 1年女子 全日本学生美術展 推奨
 
 
 
11■厳密な言い方をするなら、絵画表現に「構図」はありません。“composition”は写真、デザイン用語です。いまだに授業で生徒相手によく用いる美術用語ですが、バランスとか構成と言った類の語をこれに置き換えることがあります。「技法材料抽象」の位置を「場」の時空に経営していくということ。これが芸術史の過去に原義し、今日に蘇生すべき構図の本義に、断じて間違いありません。
 
※芥子園画伝の六法に「経営位置」とある。
 

「私」 B1 油彩 H12年度 2年女子 全日本学生美術展(大沼映夫先生ご推奨)
 
 
 
12■自己存在の確認作業が続きます。常に自分自身と向き合いながら、その存在の意味を確かめようとする精神的身体活動、あるいは身体的精神活動・・・。結局、確たるテーマをみつけることができぬまま、失意のうちに力尽きてしまいましたが、はたして、そこには11図に勝るとも劣らぬ、美しい自画像が残されていたのでした。

「作品」 B1 油彩 H12年度 1年女子 全日本学生美術展 特選
 
 
 
13■使える材料は何でも使います。日本画材料、テンペラ、油絵具、ペンキ、ニス、クレヨン、鉛筆・・・。
 

「青の設計」 30F 混合 H13年度 2年女子 高校生国際美術展 優秀賞 オーストラリア展招待出展
 
 
 
14■下図は、トタンや段ボール、しゅろなわ等のコラージュによる逸品。パネル2枚重ねに、荷札まで付いています。
 

「MA-CHI」 40F S61年度 2年男子 美術部部長 全日本学生美術展 推奨
 
 
 
15■先に出てきた「かぼちゃ」などは同じ「技法材料抽象構成」でも、終始ものを見、ものを描き続けるという制作スタイルが、かつてあった<写生>によく似ています。ここで、少し古くなりますが、私の作文集から「DESSINER考」をちょっと振り返っておきたい。本稿の肝心になります。
 
「DESSINER考」dessiner【desine】仏の語、(線で)画く、デッサン(スケッチ)する・・・・・・・西の文化がこの描画行為に負わせてきた再現的観念性の原罪も、原罪即仏果とみつけたればその神業が、絵画表現の芸術的蘇生を極東より閻浮提に問い返す。
 
スピーカーから流れて来る音の平均律は、クラシックから邦楽、ジャズから演歌に至るまで、これすべて似非バッハのコピーに過ぎず、優れて芸能音楽足り得る事はあっても、決してこれを音楽芸術であるとは言わない。絵画では今日の洋画日本画的絵画世界がこれに対応している。(しかし我々はこうした絵描きたちの仕事をこれ以上責めてはならない。今はもうそのような時代ではないのです。・・・・・・非絵画的に創造的足りえた<現代美術>も時を失った今、デザイナー気質の<アーチスト>たちによって生活美術のレベルに概念化が進み<コンテンポラリーアート>としてその芸術性は急速に失われつつある。それはそれで良いのだが、己の分を弁えない今日的芸術バカの類が不遜にも前衛や創造の精神をもてあそび、理解及ばねばいたずらに古典を批判した挙句、ついには奇跡も知らずして宗教・芸術を語りきることができると思い込む。如何に「原罪即仏果」とはいえ許しがたいこの非道。その僭越にして傲慢な霊性こそ、今日厳しく糾弾されるべきなのだ。※1990年注)かかる芸術的非芸術世界にあっては、単に作品の一属性に過ぎない音楽の曲想時間性、絵画の画相空間性のみが、現代通俗世界の煩悩とも言うべき観念にもてあそばれているだけの事である。音楽はむしろ空間の、絵画は時間の芸術であると言うべきで、共にその作品は決して観念のコピーなどではなく、従って再現もあり得ない。なぜなら表現の芸術性は常に身体を伴って、一回的に立ち会った場の気に即応すべき聖にして妙なる技術性そのものにあるからだ。かといって表現それ自体に向き合ってつくられる作品が芸術的に高揚され行く事はなく、そのために必要となる曲想や画想の持つ再現的観念性は、しかし一つの方便としてのみ、軽やかに、透明に機能すべきものであるだろう。すなわち一方では方便を方便として見抜くだけの霊性が人に要求されている。が、もとより日本の古典文化は、おそらくこうした精神風土のもとで培われていたに違いないのだ。太子は言う「世間虚仮唯仏是真」-と。(1990年)
 
美術のみならず、前世紀後半にもちあがってきた近代の問題の一切はここに帰結し、ここから折り返されていくと思います。
 

「自画像」 B1混合 H14年度 2年女子 全日本学生美術展(伊牟田経正先生ご推奨)
 

「乾いたカリンの断面」 B1混合 H14年度 1年男子 全日本学生美術展推奨
 
 
 
16■このプリミティブな手法に基づく美術表現は、芸術的に蘇生した絵画表現であり、インターナショナルに開かれた新しい日本画である、と私は考えています。「インターナショナル」であれば「日本画」と呼ぶ必要もありません。
 
 
 
※DESSINER考は1990年の作文です。今振り返るとやや高圧に過ぎると思われる表現もありますが、当時はこうならざるを得ない状況が確かにありました。

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